Sさんのこと

とあるご縁がきっかけで、ここ2カ月ほど、診断士の業務とはおよそ無関係の仕事をしていた。丸一日中、自動車を運転し、自車を取り巻く周辺の車両の挙動データを計測するという、ちょっと変わった仕事である。この仕事では40代半ばの自分がほぼ最年長であり、20代や30代の若いメンバーと二人一組でコンビを組み、軽口をたたきながらリラックスして取り組んでいた。
それが先日、Sさんという年配の方が新しく来るのでコンビを組んでくれと言われ、ジーンズにスニーカー、ジャンパーといういつもの軽装で待ち合わせの場所へ行くと、三つ揃いのスーツに身を包んだ品の良い紳士がひとりソファに軽く腰かけていた。時間は明け方の4時半、某ホテルのロビーにはその他に誰もいない。少し小柄なその老紳士は、私を見るなり立ち上がり、深々とお辞儀をしながら満面の笑顔で挨拶をされた。自分もひととおりの挨拶をしつつも、内心は「まいったなぁ」という気持ちだった。こんなことならもう少しまともな格好で来るべきだったか。
また別の意味での心配もあった。実はこの仕事はなかなかの重労働であり、走行するルートは馴染みのない人だと尻込みするほど複雑で事故も多い場所なのである。若いメンバーでも疲労の色を隠せないこの仕事を、この老紳士にさせても良いものか…
などと考えつつ、ともかく一緒に車に乗り込み、老紳士がドライバー、若造(といっても中年)が後部座席でオペレーターというコンビで計測を開始した。
結論から言うと、Sさんの丁寧な仕事ぶりのおかげで、その後も何事もなく4日間もの業務を終えることができたのだが、このSさんと二人で過ごした時間の中で色々と勉強させていただいた。
会話の中で分かったのだが、Sさんは最近70歳を迎えたのを機に、自身で創業して以来50年近くも経営してきた自動車部品製造業を息子に譲り、完全に経営から退いたばかりとのこと。Sさんは多くを語ることもなく、こちらとしても敢えて詳細はお聞きしなかったが、若い頃に経営について体系的に学ばれたようで、会話の端々で規模も業績も立派な会社であろうことが分かる。
あるとき、長い間経営を続けることができた理由を尋ねた際に、ちょっと考えたうえでSさんがポツリと言った。
「当たり前のことができない人が多い」
短い言葉だが、Sさんの丁寧な仕事ぶりを見ていた自分には、それだけで十分に理解ができた。
その後も、普通なら苦労話や自慢話のひとつも出てきてもおかしくないところ、Sさんにそんな気配は微塵もなく、どこまでも謙虚で、丁寧な言葉で趣味の城巡りの話などをしてくれた。帰り際には、孫にねだられて土産を買いに行ってきたと、にこやかに語るおじいちゃんの顔も見られた。

もしまたSさんにお目にかかることがあれば、もっともっと色々なお話を聞かせていただきたいと思う。もちろんその時こそは私も失礼のない格好で。

中小企業診断士 大越 峡士郎

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