「向き合う」ということ

先日、電車に乗って移動中、途中の駅で赤ちゃんを抱いたお母さんが私の隣に座った。すると、抱かれていた赤ちゃんがずうっと私の顔を瞬きもせず、それこそ一生懸命、澄んだ瞳で微動だにせず見つめてきた。私はもう本当に、照れくさくなってしまい、ついに耐えられなくなり、変顔をして赤ちゃんを笑わせようと必死になってしまった。(とはいえ、元が変なので必死にならなくても笑ってくれたが。) その後赤ちゃんは目的地の駅に着くまで、私の顔を見るたびに笑ってくれてとてもうれしかった。

駅についてからの家までの帰路、全くの他人で、隣に座った名も知らない赤ちゃんになぜ必死になったのだろうか、そして、赤ちゃんがにこっとしたらどうしてあんなにもうれしかったのだろうかと不思議に思った。私は独身であるが、「無償の愛」とはこんなものなのかなぁとすら感じた。それくらいあの赤ちゃんの笑顔はうれしかった。何を思ってずっと私の顔を見つめていたかは知る由もないが、あの真っ直ぐで、キラキラした瞳で、熱いまなざしを注がれてしまっては何かしないわけにはいかないと思わずにいられなかった。
そして、きっと、純粋無垢な幼子が持つ、そのあふれ出る好奇心を隠そうともしない真っ直ぐな瞳、自分の心に素直に従って行動する純朴さ、そういったものに私の心が動かされたのであろうと感じた。

かえって、私たちはどうであろう。相手のことを本当に、純粋に「知りたい」と思って向かい合えていることはどのくらいあるだろうか。相手を理解しようとしている段階にも関わらず、自分の考えや経験、知識や情報などが邪魔をしてしまっていないだろうか。ただひたすらに相手のことを見つめること、交じりっ気のない、信頼や期待、愛情や優しさ、そういった視線を相手にそそぐことができているだろうか。あの赤ちゃんは、純粋に、好奇心をもって交じりっ気のない視線で私を見つめてくれていた。そして、私が変顔をしたらとびっきりの笑顔で応えてくれた。言葉も通じない、名前もしらない、歳も40歳くらい離れている初対面の人間同士であるにもかかわらず、まさに「以心伝心」が発生したのである。

相手が自分の期待したとおりの行動をとらなかったら、厳しい視線やあきらめの視線、そして見つめることをやめてしまってはいないだろうか。費用対効果、忙しい、効率、などといった便利な言葉を覚えてしまったが故に、そればかり使っていないだろうか。全然理解してくれない、わかってくれない、と自分の未熟さを他責にしてしまってはいないだろうか。それらはきっと、顔が面白くなかったら泣く赤ちゃんと、本質的な部分では変わらないと思う。

純粋な気持ちで相手や自分自身と向き合うことで、きっと答えが見つかるのだ。と、あの赤ちゃんは改めて私に教えてくれ、そして、その大切さをあの笑顔で私に示してくれたのである。私もまずは自分自身にしっかりと向き合ってみようと思った初夏の電車での一コマであった。

中小企業診断士 東野礼

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